目 次

反合理化闘争――都市交の闘いから
  ――反戦反ファッショ反合理化について

T 合理化とは何か?

 「合理化」、「企業合理化」、一般に「産業合理化」は、帝国主義段階、特に第一次大戦後、もっと的確にはロシア革命が世界市場と世界資本主義体制に巨大な衝撃を与えて以後の、帝国主義の国家独占資本主義的強化の根本的特徴を示す。この「産業合理化」というコトバそのものもこの時期に入ってはじめてあらわれたスローガンである。
 しかし、まず第一に、「合理化」を資本主義の普遍的な本質においてしっかりと把握していることが必要である。反合理化闘争も、個々の資本家、個々の「結合資本家」(=株式会社、『資本論』)と闘う限りでは「単純な経済闘争」であり、「純経済的な運動」である。それでは、いわゆる「賃金闘争」とどう違うか?
 本来の賃金闘争は、労働市場における闘争である。市場または流通部面における労働力商品の買いと売りである。もっとも、「二重の意味で自由な」労働者として自分自身を「自由」に処分して生産過程に入った時とは、異なったものとしてそこから出て来る。資本主義的生産過程が資本の専制の下にある一つの「牢獄」であり、労働者は何ら「自由な行為者」ではなかったこと、彼らは資本家の奴隷にほかならぬこと、労働力の「自由な」安売り競争は身の破滅であることを思い知らされて。
 だが反合理化闘争は、矛盾の発射点、生産過程における闘争である。資本主義的生産は剰余価値の生産である。「資本主義的生産過程の推進的動機及び規定的目的は、能う限り大なる資本の自己増殖、すなわち能う限り大なる剰余価値生産であり、したがって資本家による労働力の能う限り大なる搾取である。」そして「合理化」の本質は絶対的及び相対的剰余価値の生産である。 大切な点は、ここでは剰余労働を必要労働時間の領分の掠奪的侵害によってその正常な限界をのりこえて延長するという方法ではなく、労働力商品が価値どおりに売買されるという前提でなお行われる方法だということである。
 すなわち、商品そのものが「使用価値と価値との統一」であるように商品の生産過程は「労働過程と価値形成過程との統一」であるが、商品生産の資本主義的形態としての資本主義的生産過程は「労働過程と価値増殖過程との統一」である。労働は「すべての社会形態から独立した人間の存立条件であって、人間と自然との間の物質代謝を、したがって、人間の生活を媒介するための永久的自然必然性」(『資本論』第一巻第一章商品)であり、労働そのもの、労働対象、労働手段をその単純な諸要素とする労働過程は、「人間生活の永遠的自然条件」(『資本論』第一巻第五章労働過程と価値増殖過程)であるが資本主義体制では、労働者が資本家に商品として売った労働力の使用価値(労働力商品の「特殊なる使用価値」=「それ自身が有するよりもより多くの源泉」)は「売られた油の使用価値が油商人に属しないと同様に」その売り手には属しないのだから、労働力の使用、すなわち労働は資本家に属し、したがって労働過程は、「資本家による労働力の消費過程」であり、それは第一に、「労働者は、彼の労働が所属する資本家の管理の下に労働する」。第二に「生産物は資本家の所有物であって、直接生産者の、労働者の所有物ではない」という「二つの特有な現象」を示し、資本は、その本質からして依然として強制労働である剰余労働の「多年生の血吸出機」(『資本論』第三巻第四八章三位一体の定式)として、労働者から「生血」を搾り取る。
 資本主義的生産は、本質的に剰余価値の生産である。そして、資本主義体制では、資本家のために剰余を生産する労働だけが生産的労働であり、資本の自己増殖に役立つ労働者のみが生産的労働者である。したがって、「生産的労働者であることは幸運ではなく、不運である」。資本家が労働者を搾取しない資本主義的生産はない。資本主義的生産過程が、単に労働過程であるばかりでなく同時に資本の自己増殖過程でもある限り、「自己自身で増殖する価値としての資本の運動」である「資本の生産過程」は、「資本家による労働力の消費過程」であり、「生きた労働」そのものを「酵母」として「死んだ労働」である生産手段に合体させ、「資本家に属する物と物との一過程」としての発酵過程に他ならないものとしてはもはや労働者が生産手段を使用するのではなく、生産手段が労働者を使用する。人間の秩序が物を支配するのではなくて、物の秩序が人間を支配する。これは資本のもとへの労働の包摂、資本家のもとへの労働者の従属であり、資本という形態をとった生産手段は「社会的権力」として労働者を支配する。この「顛倒」は「すべての資本主義的生産に共通のこと」である。
 したがって、労働市場における賃金の維持をめぐる単なる賃金闘争はそのものとしては賃金制度を前提とするブルジョア的改良の運動であるが、これに反して、資本主義的生産過程の搾取体制から発射する反合理化闘争の本質は、資本主義的私有財産秩序に対する直接の反逆であり、資本の社会的権力に対する闘争であり、多かれ少なかれ「陰然たる」内乱としての社会運動であり、賃金制度そのものに対する反逆である。
 絶対的剰余価値の生産は、労働日の長さのみを軸として回転するが、「資本主義体制の一般的基礎」であり、「相対的剰余価値生産の出発点」であり「資本のもとへ労働の形式的包摂」である。
 相対的剰余価値の生産は、労働手段か労働方法かに、あるいは両者に同時に、「ある変化」「ある革命」を起こすことによって「例外的な生産力をもつ労働は、強められた労働として作用する」から、その改良された生産様式を用いる資本家に莫大な「特別剰余価値」をもたらし、同時に「競争の強制法則」として彼の競争者を新たな生産様式の採用に駆りたて、結局この全過程によって一般的剰余価値率が影響を受ける。注意すべきは、「相対的剰余価値の生産のための方法は、同時に絶対的剰余価値のための方法であること」である。大切な点は、相対的剰余価値の生産が「労働手段か労働方法かに、あるいは両者に」、「労働過程の技術的及び社会的諸条件」「労働の技術的過程及び社会的人員配列」の変革であり「資本のもとへの労働の実質的包摂」であることである。
 絶対的剰余価値の生産は、「資本のもとへの労働の形式的包摂」(『直接的生産過程の諸結果』、『資本論』)であり、相対的剰余価値の生産は「資本のもとへの労働の実質的包摂」(『直接的生産過程の諸結果』、『資本論』)である。特殊資本主義生産様式としての「機械装置に基く協業」は、第一に、その方法のまだ捉えていない産業へのその「普及活動」において、第二に、すでにその方法によって捉えられた産業でそれを「継続的に変革」する限りにおいて相対的剰余価値の生産の方法であるとともに、それによって労働日を延長する絶対的剰余価値の生産の方法でもあり、絶対的及び相対的剰余価値の生産方法として、資本の「能う限り大なる搾取」すなわち資本にとっての「生産性の増大」のための資本のもとへの労働の形式的及び実質的包摂、「資本家への労働者の絶望的従属」の方法である。いわゆる「合理化」の本質は、この「機械装置に基く協業」による搾取方法を、すなわち「機械体系」となった機械装置としての労働手段とそれに基く「工場体制」となった労働の社会的人員配列=協業としての労働方法とによる搾取方法を、徹底的に完成しようとする運動に他ならない。
 だから「合理化」は、「能う限り大なる」剰余価値生産を意味するにすぎぬ資本にとっての「生産性の増大」であるばかりでなく、資本家への労働者の「絶望的従属」のより徹底的な完成であることを見落してはならない。
 資本主義的生産が剰余価値の生産であり、資本主義的生産過程が「社会的労働過程と価値増殖過程の統一」であることは、資本家による「社会的労働過程の搾取」または、「社会的生産過程の資本主義的利用」を意味するから、「合理化」は労働手段としての機械の資本主義的使用の「合理化」、労働方法としての労働の社会的人員配列=協業=「結合された労働」の資本主義的形態の「合理化」である。
 「機械の資本主義的使用」とは何か? 資本主義体制のもとでは、機械装置自体の生産に要する労働が、機械装置の使用によって代わられる労働よりも少いというだけでは資本家は機械を使用しない。「資本にとっては機械の使用は、機械の価値と機械によって代わられる労働力の価値との差によって限界づけられる」。「機械装置の資本主義的利用の最初の言葉」は、婦人労働と児童労働である。資本主義体制のもとでは、機械は第一に「人間的搾取材料」を拡大する手段である。機械は、筋肉をますます不要なものとする限り、労働者が自分の労働力を売るばかりでなく、筋力の弱い、または肉体の発達の未熟な妻子を売る「奴隷商人」となって労働力の価値を彼の全家族の全成員を労働市場に投げだして成年男子の労働力の価値を彼の全家族の上に分割し、彼の労働力の価値を引き下げる。資本主義体制のもとでは、機械は、第二に、労働時間短縮のための手段ではなくて逆に、労働日を延長する「最も有力な」「最も確実な」手段である。「使われない剣が鞘の中で錆びるように」非使用から生じる「自然力による機械の消耗」という種類の「物質的磨損」を減少させるためのほかに、「同じ構造の機械がより廉価に再生産され得るか、またはより優良な機械が競争者として現われるかの程度に従って機械は交換価値を失う」という「道徳的磨損」の危険を少くするために、この機械経営がまだ一般化せず一種の独占をなしている過渡期の「特別剰余価値」は異常なまでに大きく、この「若き初恋の時代」を徹底的に利用するために、また、この機械の一般化とともに、機械によって駆逐されたことになる被搾取労働者の相対数の減少を相対的剰余労働のみならず、絶対的剰余労働の増加によっても補填するために、間断なく動く機械によって労働日を延長する。機械装置の発達とともに強力となる労働時間短縮の闘争は、機械が労働時間の短縮の手段となっているからではなくて、逆に無制限に延長する手段となっている機械の資本主義的利用形態への反抗を示すものに他ならない。そして資本主義体制のもとでは、機械は、第三に、労働の強化の手段である。強圧的な労働日の制限は「機械の速度を高めることと、同じ労働者によって監視される機械装置の範囲、すなわち彼の作業場面の範囲を拡大すること」によって、この「二重の仕方」で、機械による労働の強化を行い、それはまた、労働力そのものを破壊するほどの労働の強度を産み出すことによって、やがて再び、「労働時間の再度の減少を不可避にする一転回点」にまで達せざるを得ない。
 そして、機械の資本主義的使用は、「一部は労働者階級中の従来は手の届かなかった諸層を資本に役立てることにより、一部は機械に駆逐された労働者を遊離させることによって」資本の命ずる法則に従わねばならない「過剰労働者人口」を生産する。
 しかし、機械の資本主義的使用の最も大切な特徴は、機械が常に賃金労働者を「過剰」にしようとする優勢な競争者として作用するのみではなく、資本の専制に反抗する労働者を抑圧する「最も強力な武器としてのみ生まれ出た、一八三〇年以来の諸発明の一つの全き歴史を書くことさえもできるであろう。」(『資本論』第一巻第十三章第五節労働者と機械との闘争)といわれるほどに、「社会的労働過程においては、労働者が労働条件を使用するのではなく、労働条件が労働者を使用するという、「資本主義的生産に共通」の「顛倒」が、機械装置をもってはじめて「技術的に明瞭な現実性」を受け取る。労働者はブルジョア的私有財産秩序としての「機械体系」によって支配される。機械においては、道具は、「人体の道具」ではなくて、道具機という「一つの機構」の道具であり、マニファクチャにおいて、道具を用いる部分労働者をその分肢とする「結合労働者」または「全体労働者」として、「労働者そのものから独立した客観的な骨骼をもたない」で「純主観的」であるのに反して、機械体系において、大工場は労働者から独立した「一つの全く客観的な生産有機体」をもち、「機械装置の自動的体系」、機械体系は、ブルジョア的私有と不可分に合生した「主人」として労働者を支配する。資本主義体制のもとでは、「労働手段の斉一な運動への労働者の技術的従属」であり、ブルジョア的私有財産秩序の普遍的な力として労働者から独立に存在する「死んだ機構」が「生きた付属物」として配列された労働者を支配する。
 資本主義体制のもとでの労働の「社会的人員配列」はどうか? まず資本主義的協業とは何か? 「同一の生産過程において、または相異なってはいるが関連のある諸生産過程において、計画的に相並び相協力して労働する多数者の労働の形態」である協業は、その資本主義的形態すなわち、一方では生産諸条件の共有に、他方では個々の個人が、まだ種属または共同体の臍帯から離れていなかったことに基く協業や、直接的支配、隷属関係に基く協業から区別されて、「自己の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を、初めから前提にしている」が、農民経営、独立的な手工業経営に対する反対物として発展する限り、「協業そのものが資本主義的生産過程に特有な、またこれを特殊なものとして区別する一つ歴史的形態として現われる」。そして機械装置は、若干の例外を除いては組織された共同的労働手段として、直接に社会化された労働、すなわち共同的な労働によってのみ機能するのであるから、大工業においては、労働過程の協業的性格は、「労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然性」である。
 協業は「単純な協業」であれ、「分業に基づく協業」であれ、「機械装置に基づく協業」であれ、結合労働力としてそれ自体が集団力である新たな一生産力を創造する。多数の力が融合して一つの総力となることから生ずる新たな力能としての「社会的な力能」は、個々別々の労働者の力の機械的総計と本質的に異なって、一つの「種属能力」として、「労働の社会的生産力または社会的労働の生産力」である。しかし、資本主義体制のもとでは、労働者は彼の個別的な単独の労働力のみを売ることができ、資本家は結合労働力の価値を支払うのではないのであるから、また協業は労働過程においてはじめて始まるのであるから、労働者が社会的労働者として展開するこの生産力は、資本にとって無償の自然力として、「資本が本来具有する生産力」、「資本に内在的な生産力」すなわち「資本の生産力」として現われる。労働者の諸機能の関連と全生産体としての労働者の統一とは、労働者の外に、資本の中にある。「ゆえに、彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実践的には資本家の権威として、彼の行為を自己の目的に従属させる他人の意志の権力として、彼らに対立する」。社会的労働が資本の権力として労働者を支配する。
 資本主義体制のもとでは、生産過程の「精神的諸力能」「頭の労働」が、他人の所有として、他人の労働として「手の労働」から分離し、労働者に敵対する資本の権力に転化するというこの分離過程は、単純な協業において始まり、マニファクチャにおいて発展し、「機械装置の基礎の上に築かれた大工業」、「科学を独立の生産力能として労働から分離して資本に奉仕せざるを得ざらしめる大工業」において完成する。「産業士官」及び「産業下士官」からなる「一つの特別な種類の賃金労働者」が資本家を「産業的司令官」とし、「監督賃金」をふるまわれ、資本の名において彼らの独占的な機能に固定して「監督、指揮の労働」を行う。産業兵卒と産業下士官とへの労働者の分割が進展し、「兵営的な規律」が発達して完全な工場体制をととのえる。「資本家の指揮は、一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では資本の価値増殖過程であるという指揮されるべき生産過程そのものの二重性のために、内容から見れば、二重的であるとしても、形式から見れば専制的である」(『資本論』第一巻第十一章協業)。さらに、全機械装置の監視とその常時の修理とに従事する技師などや、価格計算、簿記、会計、通信等の「商業的操作」に従事する商業労働者など、「工場労働者」の範囲外に属する「賃金労働者の比較的高級な部類」すなわち「その労働が熟練労働であって平均労働の上に位する賃金労働者」が存在する。かくして、機械体系を「武器」とし、監督賃金によって飼育された産業士官及び産業下士官の系統図をもち、「兵営的な規律」に打ち固められた資本の権力がブルジョア私有財産秩序の「社会的権力」として労働者を「専制的」に支配する。
 「能う限り大なる剰余価値生産」、「能う限り大なる資本の自己増殖」、「能う限り大なる労働搾取」のこの資本にとっての「生産性の向上」に「最も経済的」たるべく、労働手段と労働の社会的人員配列をくりかえし変革し、改善し、「合理化」することは、とりもなおさず労働に対する資本の社会的権力の、「資本家への労働者の絶望的従属」のヨリ一層の完成への運動である。だからこそ労働手段と労働の社会的人員配列の「合理化」に反抗する反合理化闘争は、発射点におけるブルジョア的私有財産秩序への労働者の反逆としてのみ反合理化闘争であり得る。
 しかし、「産業合理化」は、帝国主義の鬨の声である。ロシア革命以後、世界資本主義体制が公然たる叛乱にまで発展する階級闘争によって震撼させられ、プロレタリア革命を直接に突きつけられている時代の、帝国主義の国家独占資本主義的強化のスローガンこそ「産業合理化」である。
 われわれは、すでに「合理化」の本質を、「能う限り大なる剰余価値生産」、「能う限り大なる資本の自己増殖」、「能う限り大なる労働力の搾取」としてとらえ、それを同時に、資本主義のもとへの労働の「形式的及び実質的包摂」、資本家への労働者の「絶望的従属」または「無条件的従属」、労働者に対する「専制的」な「資本の権力」、または資本の「社会的権力」の完成への運動に帰着させた。
 資本は、単にアダム・スミスの言うような労働に対する指揮権であるのみではない。それは本質的には不払労働に対する指揮権である。「すべて剰余価値は、それが後に利潤、利子、地代等の如きいかなる特別の態容に結晶しようとも、その実体からすれば不払労働時間の体化物である。資本の自己増殖の秘密は資本が一定量の他人の不払労働を自由にしうるということに帰着するのである」(『資本論』第一巻第十六章剰余価値率の種々の表示)。
 労働者の剰余価値=不払労働に対する資本の社会的権力の強化こそ「合理化」の本質である。だから機械装置の資本主義的利用も、その労働者に及ぼす「第一次的影響」(人間的搾取材料の拡大、労働日の無制限延長、労働の強化)としてばかりではなく、機械によって労働者を「実態的に代替」し、「事実的に駆逐」する手段(「機械による資本の自己増殖は、機械によって生存条件を破壊される労働者数に正比例する」、「機械装置は、それが採用される労働部門においては、必然的に労働者を駆逐する」)としてばかりではなく、「資本の専制に対する周期的な労働者の叛乱、ストライキ等を鎮圧するための最も強力な武器」として、科学や巨大な自然力や社会的集団労働とともに資本の権力をなすものとして把握した。同様に、労働の資本主義的な「人員排列」は単に「ムダをはぶく」ばかりでなく、「工場体制」にまで発達した「兵営的な規律」として、反抗する労働者に対する資本の権力をなすものとして把握した。こうした、資本の社会的権力の、搾取体制の再編強化は、帝国主義の突撃ー「産業合理化」のなかに、ますます顕著にあらわれ出る。「産業合理化」は、帝国主義の激しい競争に打ちかつための、労働者の「能う限り大なる搾取」であり、それはとりもなおさず労働者の「能う限り」完全な「従属」、資本の「専制的」な支配の強化である。「合理化」が、いかに資本家への労働者の「絶望的従属」を完成しようとする運動であるかは、第一次大戦から第二次大戦に至るヨーロッパやアメリカ、特に一九二三〜二八年のドイツの「産業合理化」、遅れてはじまり、次第に「産業報国」のスローガンに結びつけられていく日本、そして第二次大戦後の世界帝国主義の復活、強化の過程における労働者の屈服が示している。
 帝国主義的合理化の最も重要な特徴は、この「資本家への労働者の絶望的従属」を完成しようとする運動に国家があからさまに乗り出し、国民運動という外観をとることである。『ドイツ・イデオロギー』が「支配階級内部におけるこの分裂(註「精神的労働と物質的労働の分化」)は、両者のあいだにある種の相剋や敵対関係を生み出すに至ることはあるけれども、そのような相剋や敵対関係も、彼等の属する階級自身を危殆に瀕せしめるような実際上の摩擦が起った場合には、たちまちにして自然消滅し、それと同時に、支配階級の権力を離れてもなお独自の力をもっているかの如き仮面もその正体を暴露する」というように、政治的権力とは別のものであるかの如き外観も、支配階級と支配的イデオロギーとは別ものであるという外観と同様に、資本主義体制がプロレタリア革命によってすでに準備されていた独占資本主義の国家独占資本主義への転化は、ロシア革命の巨大な衝撃によって急速に推進させられた。そして、国家独占資本主義の根本的な特徴は、資本主義的生産過程、資本主義的蓄積過程への国家の介入としてとらえられる。もっとも、この介入は、資本主義的蓄積の本質または、「単純な基本形態」を変えるものではないが、帝国主義の「産業合理化」はこうして、社会的労働過程と価値増殖過程との統一としての資本主義的生産過程から発出する資本の社会的権力と、上部構造である国家権力または政治的権力とのあからさまな結合として、帝国主義の国家独占資本主義的展開として、「資本家への労働者の絶望的従属」を「国民的」運動として推進しようとする鬨の声である。
 第一次大戦とロシア革命に直接にうち続いた、ヨーロッパ革命の第一次の昂揚は、一九二三年、ドイツ・プロレタリアートの「十月の敗北」を頂点に一応の終結をつげた。マルクの安定(一九二三年末)は、ドイツにおける帝国主義の再編と復活の狼火をなし、シレジエンの鉄とルールの石炭を奪われ、その上一切の植民地を失ったドイツ帝国主義の国家独占資本主義的強化は、一九二三年から二十八年にかけて、産業合理化の大合唱のなかで突撃し、かつ突撃した。「この労働強化こそは、戦後における資本主義的生産のいわゆる合理化の根本的内容をなすものであった」(宮川実編『一般的危機とファシズム』青木文庫)といわれ、「合理化――それは労働者に対する非人間的な労働強化の強制であり、その生命力の濫費である。」(吉村励『ドイツ革命運動史』)といわれ、「それゆえに、合理化に対する闘争は、まず最大の生産力の防衛の闘争であり、それは労働時間短縮と賃金値上げのための闘争を必然的に要求する。」(同上)という、しかし、こうした「資本主義的合理化=労働強化」という定式化は重大な欠陥を持つ。「合理化」は何よりも資本家への労働者の従属の運動であり、「反合理化闘争」は資本の権力に対する反逆である。
 すでに見たように、合理化を「客観的な有機体に、人間材料がいかに合体させられるかを見る前に」把捉することができる「労働者に及ぼす第一次的影響(労働強化等)としてばかりでなく、まさに、労働者を生産手段に合体させる仕方、資本のもとへの労働の包摂、資本家への労働者の従属、資本の社会的権力の強化として把捉しない限り、いかに、「合理化」を美化し、それに屈服する社会民主主義や「工場内の暴力的スキャップ党」ファシズムとの闘争が「前提されることは勿論である」といっても、それは時間短縮と賃金値上げの闘争で満足する改良主義の左派におち込んで、シュトルムタールをしてこの一九二三年以後の共産党の「プレッシャーグループ化」をいわしめることになる。
 ヒルファーディングのドイツ社会民主党のキール大会での有名な演説となって、「組織資本主義の発展は社会主義に導く」という組織資本主義論、経済民主主義論の周知の命題は、経営協議会(工場委員会)を完全な労使協調機関への変質にその特徴をみるように、帝国主義的強化のバク進に協力し、資本家への「絶望的従属」に労働者を売り渡す、「労働者党のブルジョア化」を飛躍的に前進させ、大破滅への道をきよめた。

【註】
2 現在の産業合理化の環

 第二次大戦後、ヨーロッパにおいては、スターリン主義的に「疎外」された労働者革命が進行していった。アジアにおいても中国革命として、労働者を中心とした人民の革命的な進撃があり、朝鮮では南北を貫いた労働者の革命的決起に対して朝鮮の反動と米帝が対抗した。
 その中で日本とヨーロッパの「生産性向上運動」が出発する。戦後の産業合理化運動は、生産性向上運動といわれている。一九四八年のマーシャル・プランの出発と同時にヨーロッパに生産性向上本部がつくられた。
 全世界的な規模での政策転換、即ち「占領政策の転換」「民主化政策の転換」、戦後の労働者革命の突撃に対抗する資本主義体制の再建と維持のための転換である。それは一連の東ヨーロッパ革命に遅れた四八年二月、ある程度発達した資本主義国であったチェコスロバキアの二月革命を具体的なきっかけにしている。
 日本の戦後復興は、朝鮮戦争まで四九年から五〇年にかけて、「百万人の首切り」として「行政整理」あるいは「企業整理」の嵐のような過程が進行し、そしてレッドパージへと進む。日経連はこの時期を「経営権の確立期」から「職場秩序の確立期」へ、ととらえている。
 そして日本の生産性向上運動は一九五一年頃から手探りを始める。五一年、朝鮮戦争が休戦に向かい、日本では「片面」講和が結ばれた。日本の資本家は、ヨーロッパの生産性向上運動にならえと研究を開始し、組織的には五四年三月に日本生産性増強委員会、五五年二月に日本生産性本部が発足した。
 五五年から本格的に生産性向上運動として、「朝鮮特需」資金と産業予備軍を梃子として、技術的基礎を変革し、重化学工業を中心としての独占の形成が進んだ。スクラップアンドビルドを通じて、高度経済成長が起きたのである。

 その上に立って、現在の「産業合理化」には、特殊の環が二つある。交通(通信)・運輸機関と公機関である。それは、技術革新にもとづく高度経済成長を受けての「産業合理化運動」として、二つの隘路を環としているのである。

 交通、運輸、通信部門は、資本主義的生産=剰余価値生産の一般的条件である。生産力が急速に増大し、資本主義的生産が飛躍的に拡大すれば、交通、通信、運輸部門の遅れた状態が桎梏となる。生産性の向上がまず道具、機械の更新にはじまり、やがてエネルギー部門が隘路となり、いわゆる「エネルギー革命」へと導かれ、またこの革命が反作用して生産力が急速に増大して行く。こうして高められた資本の生産力、拡大された資本主義生産にとって、熱病的な生産速度、膨大な規模、一生産部門から他の生産部門への、大量の資本と労働者の移転、新たな世界市場的関連をともなう高成長にとっては、「社会的生産過程の一般的条件すなわち交通、運輸機関」(『資本論』)の立ちおくれが、たえがたい桎梏となり、その打開がますますさし迫った課題となる。一九五五年以後のきわだった高成長は、現在「エネルギー革命」から、交通、通信、運輸部門の桎梏打開のために必要にかられて、この部門のはげしい合理代を強制している。
 だから都市交通の合理化は、単なる赤字解消の問題ではない。
 公営都市交通は、三つの意味で社会的性格をもつ。
 第一に、あらゆる産業、あらゆる経済的活動は社会的であり、労働者の結合して活動する力、この集団的力相互に作用し合い、依存し合い、世界市場の関連のなかにおかれている社会的活動であるという意味で。
 第二に、交通、通信、運輸部門は、私鉄のように民営であれ、都電のように公営であろうとにかわらず個々の生産(個々の資本家のものであれ、「結合資本家」=株式会社のものであれ)を社会的に結びつける基礎をなし、資本主義的生産=剰余価値生産(搾取)の一般的条件であるという理由でのみ、いわゆる「公共性」をもつものだという意味である。
 第三に、公営、国営は、国家や自治体などが、資本主義的生産=剰余価値生産(搾取)の一般的外部的諸条件を維持するための活動であり、「近代国家は労働者ならびに個々の資本家の侵害にたいして、資本家的生産方法の一般的外部的諸条件を維持するために、市民的社会が造るところの組織に他ならない」(エンゲルス)という理由でのみいわゆる「公共性」をもつのだという意味において。
 従って第一の意味の社会性、すなわち「社会的労働」の力は、資本家に直接に属して、組織資本の社会的権力であり、第二の意味の社会性、交通、通信、運輸部門という産業部門の性格からくる、いわゆる「公共性」は、民営であっても、直接に労働者を搾取して最大限に利潤を追求するとともに、他の個々の資本家、結合資本家の労働者を搾取する活動のための一般的条件として、すべての資本家に奉仕することにすぎず、第三の意味の社会性いわゆる「公共性」は、できる限り安上りで、すなわち国営、民営の公共体の労働者をできる限り安い賃金で、できるだけコキ使い、資本家全体すなわち資本家階級の公的権力が、個々の資本家(個々の結合資本家)、個々の独占資本に奉仕させることにすぎない。「住民へのサービス」といってもそれは搾取材料である労働者を、搾取者である資本によって、最も有効に搾取できるような状態にすることにすぎない。
 こうして社会的権力も公的権力も、社会においても、政治においても、第一の階級、支配階級である資本家階級の手中にあるので、この階級に奉仕する権力に他ならない。そして資本の社会的権力は、資本の名において監督、指揮の機能を司る産業士官、産業下士官の「ひとつの、奴隷でありながら奴隷のなり上り人」として、奴隷を管理する、熟練労働に対する賃金という形態をとった「監督賃金」によって飼われた「ひとつの特別の賃金労働者部類」の系統図として労働者を威圧し、資本による搾取のための手段になりはてている公的権力は、これまた多くの奴隷のなり上りをひきつれて、官僚、警察、軍隊の系統図として、個々のブルジョア諸個人に対する侵害や、革命的労働者階級による転覆に対して、「ブルジョア社会の保存」すなわち、「資本家的生産方法の一般的、外部的条件の維持」(エンゲルス)のための政治的権力として社会の上に君臨する。
 資本主義の下での公共性とはブルジョア社会そのもの、共同利益のことであり、国家は、このブルジョア社会そのもの、ブルジョア社会の共同利益を一方では、個々の資本家「個々の結合資本家=株式会社」、ブルジョア的諸個人の特殊利益による侵害から守るとともに他方、革命的プロレタリアートの反抗と転覆からそれを守る。だから「公共性と経済性の矛盾」ということは、ブルジョア社会の共同利益とブルジョア的諸個人の特殊利益との対立を意味し、労働者が経済性に反対して「公共性」を守れということは、ブルジョア社会そのものを擁護することに他ならず、この資本主義的公共性によって、合理化を強制され、首を切られ、労働強化をおしつけられ、要するに徹底的に搾取されるのをつけ入れることのみを意味する。だから「公共性」を守れというスローガンこそ実に、労働者階級の生血を自分から進んで資本家の祭壇にささげるスローガンであり、今や「奴隷商人」となった労働官僚の、労働者を合理化に協力させ、チョロマカして、帝国主義的強化に労働者をうりわたすトキの声である。
 われわれは、この資本家的公共性そのものの爆破のために闘わねばならぬ。


・この見出し及び以下の短文は、欠落と思われる部分の論旨を補ったものである。
 この原資料はB4判4枚の謄写版刷りからなっていて頁付けがない。組織保管文書は、最初の2枚が両面刷り、3枚目が上段の2/3程で(裏に続く)となって、裏は白紙。4枚目は片面で終わっている。当初、3枚目は印刷ミスによる頁落と考えていたが、著作集編纂の為に更に文書類を蒐集して発見された同文書も同様に白紙であったために、頁落ではなく連続していると判断した(著作集では第一巻153頁下段13行目の個所である)。
 今回の編集に当り、内容的に吟味した結果、頁落の可能性が高いと考えるに至った。
 それは、ここまでは、大戦間の「合理化」についての展開だが、以降は無媒介に「交通、運輸、通信部門」の合理化に関する展開に移っているからである。
 ガリ切りの分担からして、ここは何らかの区切りの箇所と考えるのが妥当であり、また戦後期の概観、生産性向上運動から、現代の「交通、運輸、通信部門」の合理化に関する展開に移っていったものと考えられる。
 後付けではなくて当時の叙述にできるだけ即するために、この論文を基に行われた千代田社研での講演からの抜粋要約で補うこととした(著作集第一巻一九三〜一九四頁)(一七八頁)。

(一九六三年一二月/『著作集第一巻』)

〔補1〕
 六六年一〜二月のレジュメで、(1)戦後日本資本主義の産業合理化運動の展開、(2)世界市場を前提とし都市と農村の分離を基礎とした産業再編成(3)第二インター・第三インターの産業合理化把握に対する批判について、深化された視点が提起された。

産業合理化と社会的政治的体制の帝国主義的改編

(1)「帝国主義」をどう問題にするか
      略
(2) 帝国主義的支配の現在への運動
  • a ブルジョア政治支配の再建と労働指揮権(「経営権」)の確立(政治的経済的支配権の確保)――敗戦から一九四八年まで。
  • b 再建された権力による第一次合理化運動――一九四九年から五四年にいたるまで。
    • イ 産業予備軍の創出――いわゆる「百万人の首切」(行政整理企画整備、レッドパージ)
    • ロ 最初の合理化資金の獲得――朝鮮戦争の「特需」
      技術的基礎はいちおうそのままに受けつぎ人間関係または分業体系を変革する(「人べらし合理化」と「職場秩序の確立」)(一九五一年頃からヨーロッパ生産性向上運動の研究始める)
  • c 「特需」と産業予備軍をテコに第二次合理化運動(「生産性向上運動」)の展開――一九五五年から六二年頃まで。
    • イ いわゆる「三〇年代の合理化」(「高度成長」下の合理化)――「特需」=合理化資金と産業予備軍=搾取材料を飛躍台に技術的基礎の変革、急速な資本蓄積運動、労働力の「不足」へ
    • ロ 「保守合同」から安保改定を経て日韓条約へ――資本家階級の“議会制独裁”の完成過程
  • d 先行した資本主義的技術革新を受けての第三次合理化運動――現在の合理化運動。
    • イ.現在のいわゆる「四〇年代の合理化」(「安定成長」下の合理化)―先行した技術的基礎の変革の上に立って、分業(社会内分業と作業場内分業)を再編し、再確立する運動(いわゆる「人間の合理化」)
    • ロ.日韓条約―日本帝国主義の独自の従属国的勢力圏の形成=反革命階級同盟の形成(戦争・ファシズム・合理化への驀進の突破口)
(3) 帝国主義の現在――階級支配の政治的頂点と経済的基礎の帝国主義的再編成
  • a 「産業再編成」は世界市場の広さを前提とする(国際通貨制度の危機とアジア太平洋圏の推進)。
  • b 「産業再編成」は都市と農村の分離を基礎とする(都市問題)。
  • c 「産業再編成」は社会的分業体制の帝国主義的改編である。
    • イ 「産業秩序」または社会内分業の再編成
      • @財政制度・公営企業制度・公務員制度の「改革」――公的部門の変革
      • A「産業基盤」(=資本主義的生産の一般的条件)の「拡充」――交通、通信、運輸、水道部門の変革
      • B企業の集中。合併・系列化――生産手段・労働指揮権の巨大な集積
      • C農業・中小企業の「構造改善」――相対的過剰人口の生産
      • D「産学協同」のための教育体系・学校制度の「改革」―労働力の生産・再生産過程としての「教育工場」の変革

    • ロ 「職場秩序」または作業場内(企業内)分業の再編成――“搾取される労働”と“搾取することの労働”の系統図の帝国主義的確立
      • @トップマネージメント、ラインスタッフ組織――機能資本家の単なる経営者(他人の資本管理者)への転化、資本所有者の単なる貨幣資本家への転化の合理化
      • A資格制度、昇進制度――労働の等級的位階性
      • B作業長制度――監督労働の合理化
      • C作業の標準化――労働の分割
      • D安定賃金・職務給化――帝国主義分業に即応するための賃金体系の合理化
    • ハ 「産業再編成」は官僚的軍事的統治機構の帝国主義的改編を促す(社会内部の分業の再編は国家機構内部の分業の改編を促す)政治秩序または組織された公的暴力の再編成――憲法改悪と七〇年安保問題(日韓から三次防・小選挙区制の問題へ)
(4)産業合理化の本質
      略
(5) 第二インターと第三インターの産業合理化把握に対する反省
  •  a 第二インターの合理化把握。
    • @産業合理化は、生産力の発展であり、したがって進歩であるから賛成
    • Aそれは「組織された資本主義」として、社会的生産過程の発展そのものと等置される
    • Bしかし賃金の引き上げと物価の下落を併わない合理化は、国民経済的犯罪であって反対
  • b 第三インターの合理化把握。
    • @現在の産業合理化は生産の発展というのはデマであり、生産力の発展ではなくて労働強化だとして、そこで労働強化(一定の労働時間に支出される労働量の増大)と生産力の発展(一定の労働量によって生み出される使用価値の増大)との似て非なる原理的説明をやる
    • A生産力の発展ならば賛成も反対もしない(むしろ中立)
    • B結果についてばかりでなく「原因」について闘かわなければならぬとし、「原因」は労働組織の変更(ベルトコンベアシステム)だとして、これと闘えとするが、労働組織の変更は、生産力の発展ではなくて、もっぱら労働強化の方法だからという理由づけすることによって(新機械の導入ばかりでなく労働組織の変更も資本主義的方法による生産力の発展なのだということは無視されている)。
  • c 第二インターも第三インターも、〈資本主義的方法による社会的生産過程の発展〉という原因についての闘争をカッコに入れた。

(「産業合理化と社会的政治的体制の帝国主義的改編」(『著作集』第一巻所収、三二七頁〜。六六年四月、東京『解放』一七号に掲載、レジュメ配布は、一〜二月)

〔補2〕六八年八月

“強制された勤勉”(現役)と“強制された怠惰”(予備役)

@反合闘争は如何にして政治に関わる力をそだて得るのか
 一昨年来、東交二重処分の中で〈東交闘争の拠点を地域的に支える〉ということをほとんど唯一の確認点にして“青年共闘”を始めたが、美濃部都知事の下で都電撤去を中心に最後的な攻撃が開始される時点での都議会闘争が頂点と崩壊の境目になってしまった。ここには〈反合闘争の政治闘争化〉についての直接的な問題が突き出されている。守る会的な経済主義への陥没を克服する努力があらわれたが強力な展開の道を見出せないままに青年共闘は崩壊に入ったのだといわねばならない。東交合理化は直接に政治問題化している合理化として、多くの労働者の絶望を生み出しながらこの絶望の下から断乎たる確信を引き出し切れぬままに最終的闘争の再度のヤマ場に入っている。労働者の〈悲惨〉を見ることにはどんな博愛主義者にも出来ることである。だがそのみじめな労働者自身の中に同時に断乎たる〈解決能力〉をみてとることは彼らにはできない。そしてこの解決能力は政治に関わってゆく能力なしにはあり得ないことはいうまでもなく、だから博愛主義者は常に経済主義者(政治にかかわるにしてもブルジョア的な経済的救済のためにである)であり、現在の社会は結局のところそのままにしてあれこれの救済活動には身を入れることはできる。われわれはこういう博愛主義者になることができないとすれば、労働者のこの政治に関わる能力をもふくめた解決能力の問題にくいついてゆかなければならぬ。
 東交反合闘争を焦点に解明することの中から出発したわれわれの合理化論は、ほとんどもっぱら、“職場”又は直接的生産過程の合理化の把握に限られ、そこにおける労働強化等の諸結果に止まらず資本家の労働者に対する専制支配を合理化の中にとらえるということに跳躍台を見出したのであり、この“職場の合理化”を一環とする合理化に即しての視野の拡大については、当初の生産の膨大化によって隘路となった交通(通信)・運輸部門の合理化の一環として東交職場合理化をとらえることぐらいに止まっていた。「資本家の下への労働者の絶望的従属」は、それが直接的現実となっている直接的生産過程に焦点を当てて問題にしてゆくことは依然として正しいし、この工場制度という強制労働の牢獄の今日的状況を労働者自身の目で見つめてとらえてゆくことは、労働者の知恵の第一条件ですらある。だがこの見つめられたものが拡大されて、この職場に結果する非常に遠くからの労働者の首を締めてくるものに立ち向かって行くことを通じて労働者の労働者としての政治への関わりが発展する。この反省を、東交闘争に即しては、今まで交通・運輸部門の合理化として政府にせまり得るとすることだけでは不充分であり、東交合理化としては、これを、都市問題を基礎にしてとらえかえすこと、つまり〈世界市場を前提とし都市と農村の分離を基礎とした産業再編成の一環としての職場の再編成〉、それの政治権力による促進としてとらえ、東交反合闘争を世界的規模で進行する都市と農村の分離の下から台頭する国際的な闘いの日本の、特に東京の都市労働者全体の課題としてこの都市交通(それに水道等)の問題があり、都市問題を通しての交通・運輸部門の合理化としてはじめて都労連を先頭とする全労働者の東京都をふくむ政治権力に向う東交職場反合の力を発展できるのだということを問題にした〔*〕。このことは更に一層鮮明にしてゆかなければならぬが、こうした努力だけでは十分でないということが、すなわち、職場の合理化を国際的な規模での産業の合理化へと、さらにそれを都市と農村の分離の問題へと拡大するというような反合理化闘争の拡大をもっての政治への関わりの追求という方向だけでは何か重大なものが欠落しているということが、特に都議会による都電撤去決議後、急速に東交をおそった労働者が〈流れる〉ということ、絶望のうちに浮き足だって流れようとすることによって突きつけられている。
    * 前項〔補1〕参照
 東交労働者をおそったこの労働者が「もはや止むなし」と〈流れる〉という状況は次のような特徴をもって現れてきたといえよう。
(1)近代化・公共性
(イ)都電撤去は時代の趨勢
(ロ)ガラガラの都電で赤字は公共性に反する
(2)議会主義 ――
(ハ)都議会で決まった以上どうにもならぬ
(ニ)地方自治の限界
(3)革新都政 ――
(ホ)「生首を切らぬ」というミノベにやられる方がよりましだ。
(ヘ)革新勢力には反対できぬ
(4)東交労組 ――
(ト)幹部は信用できぬがだれがやってもほとんど同じだ
(チ)自分だけがニラマレて損をするのはごめんだ
(5)闘いの展望 ―
(リ)この闘争には誇りがもてぬ
(ヌ)この闘争には展望がない

 こういう特徴をもって、労働者が、「もはや止むなし」と〈流れる〉という状況に対して、ただ「止れ、止れ」というのは無論なんにもならない。また「もはや資本主義はガタピシだ。学生と同じようにゆさぶれ」ということにとりつかれるのは、一層深い絶望を生み出すだけである。この労働者の〈流れる〉という絶望の中から生まれ出る断乎たる政治闘争へと反合闘争が発展できるためには、この反合闘争の内部に、ある決定的に重要なものが構築されていかなければならぬのではないか? それは要するに〈反合闘争における首切り反対闘争の位置〉の問題である。われわれは首切りを資本の運動の結果だとしてきた。たしかにそうである。だがそれは結果であると同時に原因、しかも決定的な原因でもあるのだ。われわれは、職場における資本の専制支配の問題に合理化の核心的な問題をみて、首切りの問題をただ資本の結果としてみるというままにしているのだ。
 このことを“日韓・反合闘争”直後の第二回総会で、合理化の前述した視野の拡大の問題とともに問題にし〔*〕、労働者階級を解放してゆくことができるような団結は、労働者階級の「勤勉を強制されている」部分(現役軍)のみならず、「怠惰を強制されている」部分をも貫いてゆくものでなければならぬことを反合闘争の中での行動委員会運動に関連して総括したが、東交闘争のこの〈流れる〉ということが、この問題を鋭く突き出してきたわけである。
    * 『著作集第一巻三二〇〜三二七頁』六六年二月
 〈首切り〉は資本の運動の結果であるとともに原因、しかも決定的な原因であるということは、資本は相対的過剰人口を生み出すが、しかもこの相対的過剰人口の存在を基礎にしてのみ資本の価値増殖をとげてゆくのであり、さらに、資本は労働力の商品化を一般的条件にしてのみ資本でありうるのだということ、このことをいいかえれば、職場での資本の専制支配は労働者階級の一部に失業を強制することの上にのみ実現されている、ということであり、したがって、資本の専制支配に抗する反合闘争は首切り反対闘争をその一般的基礎として据えつけてゆかねばならぬ、ということである。資本は労働者に首切りを突き付けていることによって職場を思うように支配している。だからこそ首切り反対の確固たる基礎なしには、労働者は資本のいうままに支配され絶望のうちに流されてゆくほかない。
 そして、この首切り(配転をふくむ)反対闘争は、次の一つの確固たる旗じるしの下に進まなければ、その個別的闘争は個別的闘争のままに資本によって撃破され続けなければならぬことになろう。それは何か? それは、〈働く権利〉ということでなければならない。働く権利! そこには、マルクスがフランスの階級闘争の中にみたものがある。資本が一世紀にわたって労働者を馘截してきたことをもはや許さないという確固たるものがある。〈働く権利〉は現在の資本主義の中からあらわれて、資本の権力の横暴な乱用を制限しつつ、しかも、失業又は産業予備軍の存在なしには存在できない賃金労働制度そのものの廃棄として実現されずにはおかないものとして、すでに現在の下で現実の実践的要求としてあらわれているものである。この〈働く権利〉は、東交労働者があれほど社会から持ち上げられてきながら今では全く社会の余計ものとしてボロクソにいわれながら追われていくという状況の中で、全労働者が失業の銃剣を突き付けられて強制労働へとしめつけられている中での全労働者階級的要求を指し示しつつ、闘いの真の誇りの回復であり、闘いの勝利への展望であり、労働組合への真の信頼の回復の道であり、「革新都政」を乗り越える道しるべであり、議会主義を超克した階級的実力をもってする政治闘争のあかしであり、「近代化」、「公共性」なるものの欺瞞を白日の下にあばきだす力である。〈都電撤去反対〉はただ〈働く権利〉に裏打ちされてのみ確固不抜たるものとなる。“青年共闘”の遺灰はこうして東交をはじめとする都労連の行動委員会運動、労働組合を権力に向う反合闘争へと発展せしめられる地区の行動委員会運動に、受けつがれなければならない。そして、全金前中をはじめ失業にあえぐ全民間労働者の〈働く権利〉をもかかげて政治闘争に発展する〈首切り反対闘争〉を根底とした反合実力闘争の構築を通してのみ労働者の普遍的な社会的政治運動を発展せしめるものとして、〈働く権利〉の問題が現在の反合闘争が突き出している総括点として引き出されなければならない。
 「拠点を支える」ということは一体どういうことなのか、という繰り返し提起されてきた問題は、どう掘り下げられるべきかということも反合闘争の根底に据えられるべき首切り反対闘争を〈働く権利〉の問題として闘うことの中に鍵がひそんでいる。「拠点を支える」とは実際に何をやることなのか、それは拠点に行くことなのか、それとも自分の所で闘う(何を)ことなのか、被処分者を金銭的に支えたり、ピケット要員になったり、拠点に教えられたりその逆に拠点に教えようとしたり、等々がそれぞれ不可欠なように見えながら、本当に何が核心的なことなのか? こうした種類のことの限りでは、それは根本的に支援者は支援の事実的力によって被支援者への奴隷化的影響力を得ようとし、被支援者は闘争の中心としての力によって支援者を奴隷的奉仕者たらしめようとする、要するに、支配と従属の絶えざる葛藤の構造にはまり込むことであり、これをあいまいなバラ色の「支援」、さらに「連帯」のモラル的感情でおしかくす、ということである。このことが総括されなければならない。そして次のことが引き出されなければならない。すなわち、「拠点を支える」ということの核心は、反合闘争と反合闘争の〈協力〉ということでなければならない! そして〈協力〉とは、自分自身の闘いの内部に、他の闘いが自分の闘いとして見出されて闘う、ということにほかならない。自分の闘いを「犠牲」にして他人の闘いに奉仕することでないばかりか、それぞれ異なった闘いをただ「客観的」に共通の敵にぶっつけてゆけばよいのでもなく、それぞれ「自分」がふくれて闘う、ということにほかならない。反合闘争の〈協力〉として、それはその闘う拠点自身が自分の要求をただ自分の要求としてではなく階級の要求として表現して闘うことであり、その拠点とともに闘う共闘者は自分自身の闘争にこの同じ要求を掲げて――それが自分にとって空々しい(外的な)ものとして、「負担」として、あらわれず自分にとっても共同の要求だとして取り上げられるためには階級の要求として引き出される場合だけである――闘うことにほかならない。
 全ての反合闘争は、このような〈協力〉を必要とする。そしてそれは、その根底において首切り反対闘争の〈協力〉が据え付けられていなければならない。そしてこの闘いが〈協力〉できるということは、「〇〇の首切り反対」ということが、生きた“首切り一般”の反対として階級の要求とされ〈働く権利!〉というように要約されなければならない。お互いにただ特殊なもののままでは決して自分自身の本当のものにはなることができない。そして他人の要求が自分自身の要求としてふくれたものは自分自身の直接の敵に突き付けるだけではどうにもならず、敵階級に、すなわち政治権力に向けて突き出すほかにもっていきようがありはしない。こうして、労働者の個別的闘争の〈協力〉というそれだけのことが、実は労働者の政治闘争の真の出発点となるのだ! だから合理化攻撃をつらつら分析して、これは運輸省と政府に原因があるからそれに向けて政治闘争を、とか、いや東交内部の職場闘争こそ先だとかいうことでは、何の解決方向も見出せない。つまり勝手に、職場闘争も政治闘争も作り出すことはできないからであり、あるのは単純なこと、つまり労働者がすでに自然に生み出しているもの〈協力〉ということだけであり、そして、この反合闘争の〈協力〉ということだけが反合闘争を政治闘争へ発展させるものである! そしてこのことは、反戦闘争という姿をとろうと、労働者の〈国際的協力〉として真のプロレタリア国際主義についてもいえることである。あれこれの勝手な方策をさがし出してこれを当てはめようとするどんな種類の試みも、それは労働者運動をただ傷つけるだけであり、なすべきことはこの〈協力〉ということに全てが尽くされているものとして総括しよう! それがまた、この“青年共闘”をめぐってのわれわれ自身の自慢にならない葛藤も、この反合闘争の〈協力〉ということが確固としていれば雲散霧消するほかにないのだから。

(「総路線的戦線整備の要約的問題」『著作集』第二巻所収より、六一頁〜)

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